『テクノロジーの半世紀』第3回:世界がつながり始めたとき(1995〜2004)

はじめに|「アクセスできる世界」の始まりと、つながることの構造

1995年8月24日──Windows 95の発売日は、世界中に行列ができた。
その理由は単なるOSのアップデートではない。“はじめてのインターネット”が、一般家庭の中に本格的にやってきた日だったからだ。

この10年(1995〜2004)は、社会全体が「情報と人をどうつなぐか」に本気で取り組み始めた時代だった。
Webブラウザの進化、検索エンジンの台頭、個人サイトやブログの拡大、メール・掲示板・チャットといったコミュニケーション手段の多様化──それらはすべて、「誰もが情報空間に参加できる」という社会設計を後押しした。
検索できる、つながれる、発信できる──かつて「持っている人だけの道具」だったコンピュータは、今や「つながっている人全員の入り口」へと変わっていく。

日本でもこの時期、携帯電話が爆発的に普及し、iモード(1999)によって“モバイルからネットにつながる”という感覚が日常化した。
同時に、ITバブルとその崩壊、ネット掲示板やWinnyなど、“ネットに広がりすぎた自由”がもたらす影と光もまた、この時代特有の風景だった。

あらゆる技術革新が、「人と人がつながる」ための設計に向かった10年。いま私たちが生成AIやチャットインターフェースと向き合うとき、その原点にあるのは、“情報との関係性”を社会全体で再設計したこの時代かもしれない。

■ 要点整理

・Windows 95の登場とともに、家庭にインターネットが普及(1995)
・Google創業(1998)と検索エンジン革命、情報アクセスの前提が変化
・日本ではiモード(1999)でモバイルからネットに繋がる文化が定着
・Webサービス・掲示板・メールなど、生活インフラとしてのWeb 1.0が確立
・「誰でもつながれる世界」への転換が、社会構造と行動様式を変えた

世界の視点(1995〜1999)── 検索・取引・参加が拓いた“つながる情報社会”

Webは「見に行く場所」だった──アクセス可能性が世界をつなぎ始めた前夜

1995年──Microsoftは「Windows 95」を発売し、そこに標準搭載された「Internet Explorer」は、初めて“ブラウザがある生活”を全世界に普及させる起爆剤となった。
ちょうどその頃、ライバルのNetscape Navigatorも爆発的に普及しており、ブラウザ市場は一気に加熱。これがいわゆる“ブラウザ戦争”の幕開けである。

この時代、インターネットはまだ「参加型」ではなく、圧倒的に「閲覧型」だった。Webサイトを“見に行く”という行為自体が新しく、Yahoo!やExciteといったポータルサイトが「インターネットの玄関」として機能していた。ネットに繋がるということは、世界の情報へ一方通行でアクセスできる力を意味した。

そして1998年、Googleが誕生する。「リンクを多く張られているページほど信頼性が高い」というPageRankの思想により、検索精度が飛躍的に向上。“情報を探す”行為そのものが変質していった。検索エンジンの進化は、単に技術革新というよりも、社会の意思決定プロセスを変えた現象である。
誰かに聞かなくても、自分で調べられる。これは、「知ることの民主化」にほかならなかった。

またこの時期、Amazon(1995年創業)、eBay(1995年)、PayPal(1998年)などが立ち上がり、Webを通じた「購買」「取引」「送金」といった経済活動も徐々に現実味を帯び始める。まだ市場は小さかったが、Webが“行動の起点”になる兆しが確かにあった。

社会全体では、アメリカを中心にIT企業が次々と株式上場し、いわゆる“ドットコム・バブル”が形成されていく。ベンチャーキャピタルの資金がWeb企業に流れ込み、「アイデアだけで上場する」時代の到来──それは、技術というよりも“可能性”が通貨となった瞬間でもあった。

この5年間、インターネットはまだ不安定で、遅くて、高価だった。だが、それでも人々は“世界とつながる”ことに胸を躍らせた。Webとは、“情報の海”にアクセスする道具ではなく、「初めて自分が世界の一部になれる」ツールだったのだ。

日本の視点(1995〜1999)── iモードと家庭PCがつくった“接続する暮らし”

ネットは「見るもの」から「暮らしの一部」へ──日本に訪れた接続の衝撃

1995年──Windows 95の登場は、日本にとって単なるOSの更新ではなかった。
パソコンは“専門家の道具”という認識を覆し、家電量販店に長蛇の列を生んだ。「ネットにつながるパソコンが家にある」という文化的転換点が、この年から始まった。

この頃、全国的にプロバイダーが続々と誕生。ニフティ(旧NIFTY-Serve)、ぷらら、OCNなどが個人ユーザー向けの接続サービスを提供し、モデムを介した“ピーヒョロ音”は、まさに「つながる体験」の象徴だった。
だが、日本がユニークだったのは、パソ通文化の延長線上にインターネットを受け入れた点にある。NIFTY-ServeやPC-VANなどの掲示板文化がそのままWebフォーラムやメールマガジンにスライドし、技術習熟よりも“文字でのやりとり”がネットの中心となっていった。

1997年にはYahoo! Japanが本格稼働。ポータルという概念が広がり、ネット=検索の時代へと動き出す。同時に、企業も「インターネットに情報を載せること」が社会的信用の証になり始め、企業サイトの立ち上げが一気に加速する。そして、1999年にはNTTドコモが「iモード」を開始。これはまさに、携帯電話が“インターネット端末”になる瞬間だった。コンテンツは軽量なHTMLベースで、天気・ニュース・着メロ・メールなどの情報サービスが月額課金で提供された。この“携帯でつながる”という発想は、当時の世界でも日本が先行していた。

教育現場でも、ようやく「ネット」が正規教材として扱われ始める。文部省が「学校インターネット導入推進事業」を発足させ、小中学校でもパソコン室のインターネット化が進行。「検索すること」「情報を得ること」が学習行動として認識されるようになっていった。

この時期の日本では、ネット=“生活を便利にする窓口”という実利的受容が強かった。ブログや個人発信はまだ少なく、「見る」「調べる」「メールする」ことが主な使い道だった。けれど、その根底ではすでに、「情報のやりとりが生活習慣になる」という革命が静かに進行していた。

ネットはまだ遅くて、つながりにくくて、夜中にしか電話回線が使えなかった──それでも、日本の多くの家庭で、“世界とつながっているという感覚”が芽生え始めていた

世界の視点(2000〜2004)── ドットコム崩壊後のWebが成熟の地平をひらく

バブルが弾け、Webが「社会のインフラ」へと成熟していった

2000年、いわゆる「ドットコム・バブル」が崩壊する。
Amazon、eBay、Yahoo!といった成功企業の陰で、アイデア先行・収益無視の企業が次々と淘汰された。これは一見、インターネットの後退にも見えたが、実際には“Webを持続可能な社会基盤にする”ための現実的な調整期間だったとも言える。

この5年間で、Webは“ブーム”から“現場”へと根づきはじめる。
例えば、Googleは2001年に「AdWords」を正式提供。検索連動広告というビジネスモデルにより、「無料で使えるサービスがビジネスになる」という新たな収益構造を確立した。同時に、検索結果の質とスピードでも群を抜き、Googleは“探す”行為そのものの代名詞になっていく。
2001年にはWikipediaが開設され、「知識は専門家が与えるものではなく、共同編集できるもの」という発想がWebに根づきはじめる。これはまさに、次の時代の“ユーザー主導型コンテンツ”を先取りする動きだった。

Appleもこの時期に重要な転換を遂げる。2001年、iPodの初代モデルが登場し、iTunesとともに“音楽のデジタル流通”を実現。これはAppleにとっても、ユーザーとの関係を再構築する転機だった。
Mac OS Xの登場(2001)とあわせて、Appleは“デザイン性と使いやすさを両立したブランド”として再評価され始める。さらに、ブログ文化の萌芽もこの時期に起こる。2003年にはWordPressが登場し、誰もがWebサイトを作成・更新できる環境が整備されていく。

情報は“探す”ものから“届ける”ものへ──Webは一方向メディアから双方向のプラットフォームへと変化しつつあった。

また、米国を中心に広がったオンラインフォーラムやオープンソース文化(GitHubの前身的存在、SourceForgeなど)も、「集合知」や「ユーザー協働」の力がいかに大きいかを示し始めていた。つまりこの5年は、インターネットが単なる“ツール”から、“社会参加のインフラ”へと進化し始めた段階である。

バブル崩壊は、Webが「熱狂の対象」から「社会の仕組み」へと変貌するために必要な通過点だった──
その過程で残ったものは、商業主義ではなく、「誰でも使えて、誰でも価値を生み出せる世界」だった。

日本の視点(2000〜2004)── モバイル先進国が抱えた“情報との関係性”のゆらぎ  

「いつでもどこでもつながる国」──携帯文化が築いた情報との新しい距離感

2000年代初頭、日本のインターネット環境は世界的に見ても特異な進化を遂げていた。
その最大の特徴が、「モバイルインターネットの浸透度」だった。

1999年に始まったNTTドコモのiモードは、2000年以降も爆発的に普及。着メロ、占い、天気、メール──
小さな画面からアクセスできる情報サービスは、特に若年層や女性を中心に支持を集め、「ネット=パソコン」の構図を完全に崩していく。

この時点で、日本は“モバイルでネットを使う”ことが日常的な国として、世界に先行する存在となった。
一方、行政もインフラ整備を本格化させる。
2001年、小泉内閣が掲げた「e-Japan戦略」は、“世界最先端のIT国家を目指す”という国家的構想だった。
ブロードバンド回線(ADSL)整備や公的手続きのオンライン化など、国と自治体が積極的にデジタル化を推進。これにより、光ファイバー網の家庭導入が他国に先んじて進んでいく

教育分野では、すでにパソコン室が整備された小中学校が一般化し、2000年からは「総合的な学習の時間」における“情報活用能力”の育成が文科省指導要領に盛り込まれる。学校現場ではPowerPointや表計算ソフトの授業が始まり、子どもたちは「調べる・まとめる・伝える」という思考様式を、デジタルと共に学び始めていた。

2003年には「BlogPeople」や「はてなダイアリー」などが登場し、日本にも“個人が情報発信する文化”が静かに芽生え始める。まだSNSのような双方向性は弱かったが、“誰かに読まれる前提で書く”という行為が、インターネットとの向き合い方を大きく変えていった。
また、2002年以降はフリーアドレス制、在宅勤務の試験導入、ウェブ会議システムの導入など、企業でも“ITで働き方を変える”という意識が芽生え始める。これは、のちのクラウド・リモート社会への布石となる重要なフェーズだった。

この5年間、日本は“高速回線・高密度情報・個人端末”の三拍子が揃い、世界でも稀に見る“情報アクセス先進国”となっていった。だが同時に、「情報に触れる人が、どう考えるか」「どのように関係を築くか」という、インターフェースの“質”の問いも静かに浮上していた。つまり日本は、つながることが当たり前になった社会で、“次の問い”に向き合う入口に立っていたのだ。

横断的インサイト(1995〜2004)

「つながる」ことが当たり前になったとき、私たちは何を獲得し、何を失ったのか?

1995年から2004年という10年間は、テクノロジー史において“接続の大衆化”が一気に進んだ時代だった。
家庭にパソコンが入り、職場にメールが定着し、携帯電話がWebと繋がり、情報は“持っている人のもの”から、“アクセスできる人のもの”へと移行していった。

この変化が意味するのは、「誰でも参加できる情報社会」がついに現実化したということだ。
・Googleによって“探す”能力が個人に解放され、
・Wikipediaによって“知識の構築”に参加できるようになり、
・iモードによって“生活とネットの境界”が溶け始めた。
この時代、人々は技術を「受け取る」だけでなく、「使ってつながる」存在へと進化し始めたのである。
だが一方で、“つながる自由”は、“つながりすぎる不安”も生み出していく。

情報は瞬時に届くが、過剰な接触が心を疲れさせる。誰でも発信できるが、誰もが注目されるわけではない。
アクセス可能性の平等は、可視性の格差を内包する構造だった。
またこの10年は、情報の「信用構造」も大きく変容した。
企業サイトが信頼の印となり、検索結果が判断材料となり、ネット掲示板が一次情報として扱われ始めた──つまり、「どこから得たか」よりも「どこに出ているか」が重視される情報空間が台頭したのだ。

ここには、ある種の“分散型信頼”の胎動もある。
中央がすべてを管理するのではなく、“つながりそのものが信頼の土台になる”という考え方が、技術の裏側で静かに育っていく。これは後にWeb 2.0やブロックチェーン、そして生成AI時代の「透明性と出典」の問いへと接続されていく。

言い換えれば、1995〜2004年は、情報が「個人のもの」になる最後のステップだった。
“持っているか”ではなく、“つながっているか”が力になる時代──この構造は、今日の「生成AIをどう使うか」「誰が使えるのか」という問いにも、直結している。

考察と展望

「つながった社会」は、次に“自分で場をつくる”力を求め始める

1995〜2004年は、世界がネットワークとして機能し始めた時代だった。だが次の10年では、人々は「ただつながる」ことに満足しなくなっていく。“どこで、誰と、どうつながるか”を選び、設計し、自ら場をつくる社会が幕を開けるのだ。

その象徴が、2004年に誕生したFacebookや、2006年のTwitter、2007年のiPhoneに代表されるソーシャルメディアとスマートフォンの融合である。人と人、人と情報がリアルタイムに接続され、さらに「情報を届ける」「つながりを管理する」行為そのものが、個人の行動様式として標準化されていく。

2000年代前半に構築された検索エンジン、ポータル、モバイル通信インフラは、次のフェーズにおいて「パーソナルメディア」「ユビキタス端末」「リアルタイム通知」へと再構成されていく。

このような流れの中で、個人の存在は“受け手”から“ノード”へと進化していく。つまり、誰もが情報流通の中継点になり、発信者であり、編集者であり、レコメンダーでもある──そんな構造の中で、「信頼される個」「見つけられる個」「選ばれる個」がテクノロジーによって差別化されていく。

ここで問われてくるのは、「つながる力」よりもむしろ、“つながりの意味を再設計する力”だ。その一歩目としての「アクセス可能性」が1995〜2004年に整備されたとするなら、次の10年は「選択可能性」と「表現可能性」の時代へと移っていく。

そして今日、生成AIの時代を迎えた私たちは、まさにこの設計力を試されている。AIに何を尋ねるか。どこまで任せるか。自分の判断とどう交差させるか──それはまさに、インターネットが“つながる装置”だった時代から始まった、“問い方こそが力になる”という構造的な系譜の延長線上にある。

だからこそ、次回(2005〜2014)は「プラットフォームの時代」、そして個人が「自分の場」を持ち、世界を動かす側に立ち始めた10年として、より明確に描かれていくことになるだろう。

参考・出典

Windows 95 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/Windows_95
Internet Explorer – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/Internet_Explorer
Netscape Navigator – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/Netscape_Navigator
Google – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/Google
PageRank – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/PageRank
Amazon.com – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/Amazon.com
eBay – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/EBay
PayPal – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/PayPal
ドットコムバブル – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/ドットコムバブル
iモード – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/Iモード
e-Japan戦略 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/E-Japan戦略
Wikipedia – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia
iPod – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/IPod
Mac OS X – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/Mac_OS_X
WordPress – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/WordPress
はてなダイアリー – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/はてなダイアリー
パソコン通信 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/パソコン通信

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